澪標の会提供 日露戦争アーカイブズ

100年前の「今月」

1905年10月

先月は,ポーツマスにおいて日露講和が締結され,前年2月に始まった戦争にも終止符が打たれることになった。今月4日には枢密院が講和条約を満場一致で可決し,佐世保,長崎,対馬,函館の各要塞地帯の戒厳令を解除した。

日本各地で,この日露講和に反対する集会が開かれたことも前回に述べたとおりであるが,そうした最中の今月16日に小村全権が帰国し,厳重警戒の中を新橋駅に着いた。そこには桂首相,山本海将が出迎えたが,国民の感情を配慮し質素な出迎えとなった。小村全権はそのまま参内・奏上し,明治天皇は講和締結までの苦労を深く嘉賞されたという。

20日には連合艦隊が横須賀に凱旋,22日に横浜港に終結し,東郷司令官は参内伏奏した。翌23日には東京湾で海軍凱旋の大観艦式を挙行,東京市はそれとは別に24日に海軍大歓迎会を行なった。

このように,一部が暴徒化した講和反対という世論の対極軸に,日本軍の「大戦果」を祝う行動があった。凱旋は12月まで各地で行なわれた。


一方,世界に目を向ければ,3日にクロアチアは民族自決を要求するフィウメ決議を採択,俗にユーゴ問題として括られるクロアチア人とセルビア人との混住の歴史は複雑で,この延長上のサラエボ事件が第一次世界大戦の引き金になったことは有名である。

16日にインド政庁がヒンドゥー地域とムスリム地域に分け,民族対立を煽ぐベンガル分割法を施行した。

ロシア国内も騒然としてくる。モスクワの印刷工が始めたストライキが次第に広がっていき,19日にはカザン鉄道従業員のストが始まる。これによって,モスクワから出発する鉄道の全てが止まる規模にまで達した。こうしてゼネストがロシア全土に広がっていった。この状況を抜本的に検討すべく,22日,23日と続けてロシア皇帝はウィッテを呼び,その会見での討議をもとに30日になって,ついに立憲君主制,いわゆる10月宣言を出すに到る。なお,26日にはサンクトペテルブルグにソビエトが誕生,第1回総会がトロツキーを議長にして行なわれた。

31日にはキエフなどでユダヤ人の虐殺が行なわれた。18世紀末から続いていたウクライナ人の民族運動の中で起こったものと考えられる。いわゆる「ポグロム」(またはパグロム)といわれるユダヤ人に対する集団的迫害の一つであろう。

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