1905年9月
先月29日,ポーツマスにおける第十次日露講和会議で講和条件に対する合意に達し,ついに講和が成立したことはすでに述べた。そして今月1日,日露休戦議定書の調印が行われ,5日にはポーツマスで講和条約が締結されて,外交上の戦争終結をみたのである。
しかしその一方で,この条約が「屈辱講和である」とする国民世論が高まりを見せていく。「大阪朝日新聞」は,天皇陛下に和議の破棄を命じ給わんことを請い奉る,とする一文を掲げ,「万朝報」は,弔旗を以って迎えよ,と論じた。「国民新聞」は講和は好評とする海外の新聞の論調を紹介したが,御用新聞と叩かれた。しかし実際に多くの海外の新聞では,日本の選択は正しく,十分に日本の名誉は保たれたとする論調が目立っていたのである。
3日には大阪市公会堂で戦争継続・講和条約破棄の市民大会が行われ,4日には講和問題同志連合会が閣僚と全権委員弾劾の上奏文を捧呈,5日には,同連合会が東京・日比谷公園で講和条件反対国民大会を開催,警視庁の対応が群衆の反発を招き,この大会はついに一部の群集が暴徒化して東京の交番の約八割が焼き討ちに会うという大事件に発展してしまった。
そこでその翌日,東京に戒厳令が敷かれた。「朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮詢を経て帝国憲法第八条に依り東京府内一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し之を公布せしむ」とある。これは11月末まで続くことになる。
しかし,その後も各地で反対運動が起き続け,たとえば6日には京都で,8日には神戸で,11日には大阪で,12日には横浜で,21日には名古屋で,それぞれ反対国民集会が開かれている。
ただ,こうした中でも戦争終結へのステップは着々と進められた。8日に大山満州軍総司令官に休戦条約を通達,13日には満州における日露両軍の休戦議定成立,14日には大山総司令官から全軍に休戦命令,そして16日には休戦が実施された。さらに18日には島村少将とエッセン少将との間で海軍休戦協約が締結された。
この月,島村抱月がヨーロッパ留学から帰国。また,日本海海戦の主役であった「不沈艦」戦艦三笠が,この月の11日に佐世保港で火災を起こし沈没するという皮肉な事件があった。