1905年7~8月
[お断り]この項は,原則として一か月単位に記載していくことにしていますが,今回に限っては7月と8月の二か月分をひとつにまとめました。ご了承ください。
日本が「日本海海戦」の圧倒的勝利を背景に,ロシアとの講和に向けて動きだしたことは前月の項で述べたとおりである。ルーズベルト米大統領が日露講和を提議したのが6月9日であったが,その後,着々とそのための準備が進められることになった。
実際にポーツマスで講和会議が開始されたのは8月10日であったが,その前後の動きを時系列に追ってみよう。
日本側講和全権委員として,小村寿太郎外相,高平小五郎駐米公使が任命されたのは7月3日である。さらにその翌日には,全権委員随行員として,佐藤愛麿弁理公使,山座円次郎政務局長,安達峯一郎公使館一等書記官,本多熊太郎外務書記官,小西孝太郎外交官補の5名が任命され,立花小一郎歩兵大佐が米国公使館付に補せられた。
7日には講和会談の場所がポーツマスに決定し,翌8日に小村全権一行は一路米国に向けて横浜を出航したのである。一行を乗せた「ミネソタ号」は20日にシアトルに着き,ニューヨーク到着は25日であった。28日には小村外相と高平公使がルーズベルトを訪問した。なお,14日には高平公使が,同じく全権に任命されたロシアのローゼン男爵とルーズベルトに面会している。
一方この月の13日,ロシアは講和全権として元蔵相のウィッテを選定したとの通知をルーズベルトに送っている。20日にはウィッテもロシアを出発して米国に向かった。31日にはローゼン男爵がルーズベルトと会談。ウィッテは,月が替わった8月2日にニューヨークに到着し,二日後にローゼン男爵とともにルーズベルトを訪問した。
翌5日,ルーズベルト米大統領はオイスター・ベイに浮かぶ「メーフラワー号」上で日露の全権委員を紹介,日露全権は8月8日に講和会議開催地のポーツマスに到着した。翌日は会議の進め方などに関する非公式会議が行われ,いよいよ10日午前10時15分,第一回目の日露講和会議が始まったのである。
もちろん,講和が成立するまでに,実に10回もの会議が行われたことをみてもわかるように,この会議は平坦な道を歩んだわけではなかった。もっとも大きな問題は,樺太割譲と賠償金に関してであった。ロシアとしては,戦争による完全敗北を認めることはどうしても避けたかったから,領土を奪われ,賠償までさせられることは何としても拒否しなければならなかった。一方,日本側としては体力の限界に来ていたことには違いなくとも,少なくとも戦争には勝ったという世論を無視できない。したがって,主張もその線に沿ったものになったのは当然である。
第二回会議は12日に,第三回は14日,第四回は15日,第五回は16日,第六回は17日,第七回は18日,とほとんど連日,精力的に話し合われたのであるが,肝心の問題を決することができず,次回を22日とすることにして会議をいったん中断することになった。
ロシアのローゼン男爵は,その間,米大統領との間で非公式の会談を行っているが,ここで事態の打開策が検討されたことは間違いない。
第八回の会議が予定された22日になって,ロシアは一日会議を延期してほしいとの申し出を行って23日に変更された。この日すなわち22日に,ルーズベルトは日本側に対して,講和交渉を決着するためには賠償金要求を放棄するよう勧告。この日,山県有朋元帥は桂首相を訪問し,講和会議問題を討議している。
23日には第八回会議が開催され,日本側は樺太北部の譲与を条件に12億円の代償支払いを要求という譲歩案を示したが,ロシアはこれを拒否してこの日の会議を閉じた。
26日,本来であれば最終の会議になるはずの第九回会議が行われたが,前回議事録への署名を行っただけで散会,ついに最後となる第十回会議が29日に行われた。
実は,この会議は28日に行われる予定であったが,日本側の要請で一日延期されたのである。この間,28日には首相官邸に各元老,閣員等が集まって講和への幕引きに関して討議,その後御前会議が行われた。この時点で確実に言えることは,日本としてこれ以上戦争を継続するだけの余力はもはやなく,事態をこのまま長引かせることはできないという現実であった。ここにおいて樺太割譲・賠償金要求の両方を取り下げても,早期決着を図ることが決定,裁可されたのである。
29日の第十回会議は,この決定を背景に行われ,何らの賠償金を要求せず,しかも樺太の北部をロシア領として認めるという,ロシア側の主張にほぼ沿った形で講和が成立した。
8月31日,桂首相は天皇に講和成立を伏奏,この日,講和問題同士会は条約破棄の決議を行った。「屈辱講和」の世論がこうして立ち上っていくのである。
いままで,日露講和の進捗に関してざっと見てきた。
7~8月の出来事で,もうひとつ記しておかなければならないのは樺太のことである。日本海海戦の勝利によって講和の足固めができたのであるが,その交渉を有利に進めるための一環として,前月に樺太の占領を天皇が裁可したことはすでに述べた。この方針に沿って,7月4日,片岡第三艦隊司令長官が第一次陸軍輸送戦隊を援護して大湊を出航,出羽第四艦隊司令長官は6日,樺太上陸地点に向かう。7日には広瀬司令率いる掃海隊が樺太上陸地点附近を掃海,同日,独立第13師団が南樺太に上陸を開始,ロシア軍はコルサコフからの撤退を開始した。翌日,日本軍はコルサコフを占領する。
こうして,同月24日には北樺太アレキサンドロフを占領,31日にはロシアのタラセンコ大佐と小泉参謀長が第一ハムサダにおいて会見,樺太のロシア軍は完全に降伏したのである。
こうした「戦果」があったにもかかわらず,上述のように結果として講和を有利に成立させる条件にはならなかった。歴史とは,往々にして人為的な因果関係では動いていかないものなのかもしれない。