1905年5月
この月は歴史的な「日本海海戦」が行われて、日露の優勝劣敗が明確になった月である。これについては後に触れることとして、この月のできごとを順次振り返ってみる。
5月1日はメーデーと呼ばれるが、日本で最初のメーデー行事は、ちょうど100年前のこの日に行われた平民社の集会であった。言うまでもなく平民社は、堺利彦と幸徳秋水があくまでも非戦論を唱え『萬朝報』を退社して結成した新聞社で、週刊『平民新聞』を発行していた。平民社が標榜したのは「平民主義・社会主義・平和主義」であったが、日露戦争が激化する中、平民新聞が全面赤刷りの64号を発行して廃刊に追い込まれたことは、すでに1月の項で述べたとおりである。
前月に日本を発った有栖川宮殿下は、5日にイタリアのネープルスに着き、8日にはイタリア皇帝から勲章を授与されている。その後、殿下は13日にローマを発って翌日にパリに到着、17日にフランス大統領を公式訪問した。その後ベルリンに到着したのは、日本海海戦の決着がついた翌日の29日であり、この日、ドイツ皇帝から黒鷲大綬章を贈進されたが、日本海海戦がほぼ終焉をみたのは28日の午後7時すぎであったから、この海戦の戦勝報告は耳に届いていなかったであろう。
歴史にその名を刻んだということでは、この月の13日、マタ・ハリがパリのムーランルージュでヒンズー・ダンサーとしてデビューしている。一時は一世を風靡したが、第一次世界大戦が勃発したあと、人気が下火になったこともあって故郷のオランダに戻った。そこでドイツ軍のスパイとなり、1917年にフランスで銃殺刑に処せられたのであるが、マタ・ハリの名はいまだに代表的女スパイの代名詞として語り継がれている。
さて、日本海海戦である。
ロシア第三太平洋艦隊は5日にシンガポール沖を通過、9日には第二太平洋艦隊とカムラン湾北方のヴァン・フォン湾付近で合流し、ついに14日、「バルチック艦隊」はヴァン・フォン湾を出航、一路ウラジオストクを目指して日本海に向かったのである。輸送船を含むその総数は50隻であった。23日には東シナ海にあって最後の石炭搭載を行った。ロシア艦隊の旗艦幕僚技師ポリトウスキーの妻への手紙は、この日をもって終わっている。
彼は、この23日付の手紙で「東シナ海にあり、フェリケルザム提督の病気は危篤に陥りたり」と述べ、最後に「皆は、今後はウラジオから手紙を出す方が早く着くと言うが、ほんとうにウラジオから出すことができるのかどうか、また、どこから発送するのが早く着くのかは分からない。ウラジオまでは1200マイルとなって、あと6ないし7日の行程を残すだけである」と結んでいる。
こうして、運命の27日を迎える。
バルチック艦隊が対馬海峡を通過する光景を最初に目撃して報告したのは宮古島の漁師であった。26日の朝のことである。これが有名な「久松五勇士」の一件で、司馬遼太郎『坂の上の雲』の「宮古島」(新装版七巻333ページ以下)に詳しい。結果的には「信濃丸」の報告の方が先に大本営にもたらされたのであるが、司馬に「日露戦争は日本人のこのような、つまり国家の重さに対する無邪気な随順心をもった時代におこなわれ、その随順心の上にのみ成立した戦争であった」(新装版『坂の上の雲』(七)344ページ)と言わしめる出来事であった。
かくして27日午後1時55分、東郷連合艦隊司令長官は旗艦「三笠」のマストに「興国の興廃此の一戦にあり各人一層奮励努力せよ」との信号旗を掲げ、2日間にわたる大海戦が展開される。ここに投入された日本の艦船は107隻を数えた。
午後3時過ぎにはロシア戦艦「スワロフ」が大破して列を離れ、フェリケルザム提督の旗艦「オスラービア」が沈没、その後、特務艦「アナズイリ」、仮装巡洋艦「ウラール」、戦艦「アレクサンドル三世」、工作船「カムチャーツカ」、戦艦「スワロフ」、同「ボロジノ」が相次いで午後7時半ごろまでに撃沈された。28日午前1時ごろにはエンクウィスト司令官が、巡洋艦「オレーグ」、「アウローラ」、「ジェムチューク」を率いて西に転進することを決め、ウラジオストクに向かうことを断念するに至る。しかし同日午後4時45分頃に駆逐艦「漣」と「陽炎」が白旗を掲げたロシア駆逐艦「ベドウイ」を捕獲し、その中にいたロジェストウィンスキー中将を捕虜として収容したことによって海戦は事実上の決着がついたのである。
けっきょくウラジオまで逃げていけたロシア艦は、巡洋艦「ジェムチューク」、駆逐艦「ブラーウィー」と「グローズヌイ」の3隻だけという有様であった。
この戦勝を背景に、月末31日には米国大統領ルーズベルトに講和の斡旋を依頼すべく、駐米公使高平小五郎に訓電が発せられ、戦争終結に向けた具体的な流れができていくのである。