1905年4月
前月に奉天の会戦に決着がついたことにより陸戦は沈静化され、大きな衝突は起こっていない。むしろ、この月は来るべき日本海海戦を控えた嵐の前の静けさとでも言える時期であった。
ロシア第二太平洋艦隊がノシベを出航後、初めてうっすらと陸地をみたのが4月5日のことである。見えたのはスマトラ島の付近の小島である。同艦隊は8日にはマラッカ海峡を通過し、14日にカムラン湾に入港する。カムラン湾は当時フランス領であったため、日本政府はフランス政府に対して、この月の18日にロシア艦艇停泊問題で抗議を行っている。
これに関し、翌日のフランス紙「ル・タン」は、フランスが違反した事実はないと言及、20日には代議院における質問に対してフランス首相が「カムラン湾に停泊中のロシア艦艇に対して、直ちにフランス領の港湾から退去するよう通告した」と答弁。21日の「ロンドンタイムス」は、交戦国の軍艦に時間制限を設けずに停泊を認めるフランスの中立条規は、かえって面倒を引き起こすことになると論評した。
こうした応酬がありながら、実際にフランス巡洋艦に追われるような形でロシア艦隊がカムラン湾を出航したのは5月9日のことである。
たまたまドイツ皇太子の結婚式に参列のため1日に日本を出発した有栖川宮殿下は、乗船したプリンツ・ハインリッヒ号の船上から、カムラン湾に入港した日のロシア艦隊を見られている。因みに、ドイツ皇太子の結婚式は6月6日にベルリンで挙行された。
このカムラン湾で第二艦隊と合流することになるロシア第三太平洋艦隊は、2日に現ソマリアのジプーチに到着、7日にここを出航して12日にアラビアのミルバトに着く。そしてこの月の28日には、第二太平洋艦隊が久しぶりの陸地を見たあたりに進むのである。
一方、日本の連合艦隊の動きには特筆すべきことはない。わずかに、東郷連合艦隊司令長官の命によって上村司令長官が13日、第二艦隊の一部を率いてコルサコフ島とアスコルド島の周辺に水雷を敷設しに行っている程度である。
この月、世界に目を向ければ、25日にロンドンでロシア社会民主労働党(ポルシェビキ)の大会が開かれ、30日にはフランス統一社会党(第二インターのフランス支部)が結成されている。ロシア帝国崩壊の足音は急速に大きくなっていくのである。
昨年末のスマトラ沖大地震と、その余震とみられる今年3月の地震の被害の大きさは記憶に新しいが、ちょうど100年前の4月4日にインド地震が起きている。マグニチュード8.6で、1万9千人が犠牲になった。
ベルギーのリエージュで万国博が開幕したのが27日のことである。
一方、日本では12日に阪神電鉄の大阪-神戸間が開通した。
文化面では、5日に日刊紙「日本」がトルストイの『復活』を内田魯庵の訳で連載を開始、15日に漫画雑誌『東京パック』が創刊、25日には週刊「直言」が木下尚江『醒めよ婦人』などの婦人特集を組んでいる。