1905年3月
3月は日本軍の奉天総攻撃の開始で幕を上げた。1日のことである。参加した日本軍は、西から第三軍、第二軍、第四軍、第一軍、そして鴨緑江軍と、まさに総力戦の布陣である。司馬遼太郎は『坂の上の雲』で「この当時の表現でいえば乾坤一擲の勝負を敵に強いようとするものであった」と述べている(文春文庫新装版第六巻344ページ)。この作戦においては、とくに第三軍の動きが重要な役割を担っていた。『坂の上の雲』では、「乃木の役目は重大である。単に左から突いて出るというだけでなく、輜重もなにも置きすてるほどのいきおいで前進して敵の右翼を突くだけでなく、その背後にまわらせ、敵の背後を脅かしめる。さらにそれによって、奉天西北部に控置されているとおもわれる敵予備隊をひきつけておく。」と書かれている(同書343ページ)。
実際には、クロパトキン極東軍総司令官は鴨緑江軍と第三軍を混同し、本来は不要な心配から全軍を退却させることになる。総攻撃の開始直後は日本軍も苦戦を強いられたが、このクロパトキンの勘違いから、7日ぐらいには攻勢に転じることができた。
奉天が堕ちたのは10日である。ロシア軍は午前10時、奉天停車場付近の建物に火を放って退却を始めた。この日メッケル将軍は、奉天の戦勝は戦争自体の終結につながるものであると評した。大山総司令官は15日、総参謀長児玉大将、参謀の福島、井口、松川の各少将以下、幕僚を従えて奉天に入城を果たす。
満州軍が鉄嶺を占領したのもそのころである。さらに日本軍は19日には開原を占領するが、それ以上の深追いはしなかった。そして児玉総参謀長は28日、休戦促進のためにいったん帰京する。
一方、クロパトキンは17日にロシア軍退却の責任を取らされて皇帝から罷免され、後任には今回の会戦で第一軍司令官として参戦したリネウィッチ将軍が就任した。
海の方では、長らくノシベに留まっていたバルチック艦隊は16日ようやく出航し、インド洋を東北に進み始めたのである。月末にはスリランカの南に達している。第三艦隊は13日にスダ湾に到着、黒海からの艦船と合流、21日にはスダ湾を出航して24日にポートサイドに到着する。
この月、国内では15日に日刊紙「大阪時事新報」が創刊され、21日には古川鉱業が設立された。東京・佐世保間に電話回線が開通したのが30日である。
外国の動きでは、のちに日露戦争の調停者として活躍する米ルーズベルト大統領が4日、二期目の就任式を執り行った。
この月の17日にはアインシュタインが後の量子力学の基礎につながった光電効果を説明する論文を発表した。実は、この年はアインシュタインが発見した重要な三つの概念である「光電効果」、「特殊相対性理論」、「ブラウン運動」に関する論文をつぎつぎに発表し、のちに物理学の分野で「奇跡の年」と言われるようになったことはよく知られている。アインシュタインは、とくに光電効果の発見で1921年にノーベル賞を受賞した。