1905年2月
明治38(1905)年は旅順攻略で幕を開けたが、この月の8日には日露開戦1周年を迎え、戦局は慌しさを増してくる。それでも日本はよくここまで戦ってきた、というのが実態であったであろう。東京の歌舞伎座では2日から1週間、「日露戦争活動大写真展」が開かれたが、こういう催しができたのも「善戦」していたからに他ならない。一方、かの第二太平洋艦隊の技師ポリトウスキーは、8日、「日本と開戦してから、今日はちょうど1周年に当たるが、この戦争は今日に至るまで、恥辱不幸頽壊以外の何物もわが国には与えなかった」と述懐している。
1年も闘えば軍費の増加も著しい。10日には当時の日銀副総裁であった高橋是清に外債募集のための渡欧が命じられ、17日に横浜を出発する。また、27日には1億円の国債が発行された。
陸戦の方は、前月末の黒溝台占領後、ロシア軍は奉天方面に退き、形の上では小康状態を保っていた。日本軍にとっては3月の奉天への総攻撃に備える準備期間にもなった。8日には第四軍に配属された28センチ榴弾砲が五里街に到着。これは奉天の会戦でその威力を存分に発揮することになる。9日には、児玉源太郎満州軍総参謀長と川村景明鴨緑江軍司令官が共同作戦について協議を行っているが、23日からの鴨緑江軍による清河城の攻撃開始も、この一連の計画によるものであった。こうして月末までには奉天攻撃の準備が整うのである。
この月の15日、ロシアではネボガトフ海軍少将が率いる第三太平洋艦隊がリバウ港を出航した。21日にはデンマークのスカーゲン湾で石炭の供給を受ける。もっとも、第二艦隊の方は、あいかわらずノシベに足止めされた状態が続いている。
ロシアでは、まさに内憂外患と言うべきか、前月の『血の日曜日』事件の後、指導者ガポンはロシア国外に脱出したが、その後もさまざまな運動が起こってくる。17日にはモスクワ総督のセルゲイ大公が社会革命党員によって暗殺され、その二日後にはモスクワで鉄道労働者ストが行われて鉄道渋滞を引き起こしたのであった。