1905年1月
明治38(1905)年は、日露戦争にとって実質的にもっとも大きなターニングポイントとなった旅順攻略で年が明けた。第三軍は、元旦に二龍山からH砲台に亘る線を占領し、ロシア軍司令官ステッセルは、ついに旅順攻防戦の降伏を申し入れたのである。
翌日、伊地知幸介とロシア軍関東州要塞地区参謀長レイス大佐らによる開城交渉が行われ、同日、旅順開城となった。そして5日には水師営で乃木将軍とステッセル将軍の会見が行われ、北京駐在の各国公使は、この際に日本側が出した旅順降伏条件を公平なものとして承認した。その結果、7日には遼東半島の全部を日本の占有として封鎖解除が宣言され、旅順口に新鎮守府が設置されたのである。
この旅順陥落の情報は日本中を駆け巡った。何回も攻撃に失敗し、数多くの兵士の血を流した戦いであっただけに、国民の喜びも一入であった。早くも5日には各地で花電車が走り、6日には白木屋百貨店が旅順陥落記念福引大売出しを行って、1等に50円の呉服券が配られた。また、7日には東京日比谷公園で東京市主催の「旅順陥落代祝勝会」が催され、15日には祝勝の軍用軽気球が東京吾妻橋から上げられるなどの行事が続いた。
さらに18日には東京隅田川に、当時の京橋区民が戦勝を記念して「かちどきの渡し」(渡し舟の施設)をつくった。ここに後の勝鬨橋(昭和8年着工)ができることになる。
こうした戦勝ムードが日本国中に蔓延していく一方で、反戦・厭戦の空気もまた増大していった。さらに、それに対する圧力も増えていく。
11日には東京地裁が反戦論の幸徳秋水らに有罪の判決を下し、29日には幸徳秋水、西川光二郎らの「平民新聞」が前面赤刷りで64号を発行して廃刊した。前年の11月に大町桂月から糾弾された与謝野晶子は、1月に山川登美子・増田雅子とともに刊行した詩歌集「恋衣」で、ふたたび『君死にたまふこと勿れ』を掲載、また「太陽」1月号には大塚楠緒子が『お百度詣』を発表し、
かくて御國と我夫と
いづれ重しととはれなば
ただ答へずに泣かんのみ
お百度詣ああ咎ありや
と歌った。
ところで、ロシア第二太平洋艦隊は元旦にマダガスカル島に到着、9日はノシベ港に入港し、フェリケルザム支隊と合流した。同日、後発隊がスダ湾を出航、着々と日本海に向けた行動が進められている。もっとも、ノシベのロシア艦隊はそのまま2ヶ月以上、この地でじっと次の行動を待つことになる。
再度、陸戦に目を向ければ、25日にロシア軍が黒溝台に侵攻、29日には大激戦の末、日本軍はロシア軍を渾河右岸に駆逐した。この5日間の戦闘を黒溝台(附近の)会戦と呼ぶ。
この月、夏目漱石は「ホトトギス」に『吾輩は猫である』の連載を始め、正岡子規は、同誌に『仰臥漫録』を発表した。