1904年12月
日本の第三軍は前月の27日未明、前月の旅順正面攻撃作戦の失敗から、目標を二〇三高地への攻撃に変換した。11月末には、一旦はこの高地を奪取したが、12月1日にロシア軍が奪回、2日には一時休戦をして双方の死傷者の収容にあたった。
5日、二〇三高地への攻撃を再開、日本軍はついにこの占領に成功する。旅順で陣頭指揮を執っていた総参謀長児玉源太郎は、二〇三高地超えで28センチ榴弾砲によるロシア艦隊への攻撃を命じた。司馬遼太郎『坂の上の雲』によれば、児玉に命じられた少将豊島攻城砲兵司令官が各部隊に砲撃を命じた後、
その後、十分後に、二十八サンチ流弾砲の陣地から殷殷と砲声がひびきはじめたのである。
その砲声のすさまじさは、地に亀裂を走らせしめんばかりの物凄さであった。
その命中精度は、百発百中であったといっていいであろう。
と書いている(文春文庫新装版 第五巻126-127ページ)。
この攻撃によって6日には戦艦ポルターワ、レトウィザン、ペレスウェートを撃沈、翌日には戦艦ポビエダ、巡洋艦パルラダを沈めている。ロシア旅順艦隊の全滅が確認されたのは17日であったが、児玉は9日には旅順を後にした。
旅順艦隊が壊滅的打撃を蒙ったことは、その後の展開に決定的な意味を持っている。実は、この月の1日、ロシア第二太平洋艦隊はガボンを出航、4日に喜望峰を通過している。さらに7日にはグレート・フィッシュ・ベイを、17日にはアングルペクウェンを出航、そして暮れも押し迫った29日にはセント・マリー島沖に到着して停泊した。もし、この艦隊が日本海に達したときに旅順艦隊が健在であれば、日本海海戦の結果は逆転していたかもしれないのである。
しかし、現実には旅順艦隊は壊滅した。そして、第二太平洋艦隊はその情報をセント・マリー島で聞くことになった。技師ポリトウスキーが妻に宛てた12月29日付の手紙を見てみよう。ここには、「セント・マリー島付近にあって陸上より通信を得た。それは公言を憚られるような内容であった。旅順にあった艦船はことごとく殲滅された。また装甲巡洋艦グロムボイは破滅し、クロパトキンは依然として奉天に留まって閲兵している」と記している。
旅順艦隊壊滅の情報は世界を駆け巡り、29日のロンドンにおける日本の公債は高騰、逆にパリ、ロンドンにおけるロシアの公債は暴落したのである。
30日には東郷連合艦隊司令長官、上村第二艦隊司令長官が戦況報告のため上京、参内した。
この月の20日、三井呉服店が三越呉服店になり、28日には作家の堀辰雄が東京麹町平河町に生まれている。また30日にはパブロフにノーベル生理・医学賞が贈られた。