澪標の会提供 日露戦争アーカイブズ

100年前の「今月」

1904年11月

日露戦争におけるこの月の動きを理解するには、ロシア艦隊の動きを見ておく必要がある。前月15日にリバウ港を出港したロジェストウィンスキー率いる第二太平洋艦隊はタンジールで二分され、フェリケルザム少将率いる吃水の浅い艦船の支隊はスエズ運河を経由すべく3日にタンジールを発ち、ロジェストウィンスキーの本隊は11月5日に同港を出航、12日にはダカールに入港し16日に抜錨した。

このロシア艦隊の情報は、11月初旬には大本営も把握しはじめ、これらの艦隊が日本近海に到着する前に旅順を落とす必要性をひしひしと感じ取った。

前月末、乃木司令官は第二回旅順総攻撃を中止したのであるが、大本営はロシア艦隊の行動から早期旅順陥落を目指し、11月11日、第七師団の第三軍増援派遣を決定した。これで国内には師団レベルの部隊はいなくなり、まさに背水の陣を敷いたことになる。13日から同師団の輸送が開始され、19日には先遣隊が大連に上陸、すぐに第三軍に編入された。翌日、乃木は第三軍の旅順攻撃計画を大山総司令官に報告し、大山はこの計画を認可、訓令する。

こうして26日、第三軍は第三回旅順総攻撃を開始し、松樹山、二龍山、東鶏冠山北堡塁を攻めたがロシア軍の反攻はすさまじく、多くの死傷者を出して攻撃も頓挫しかけた。最後に乃木は中村覚少将率いる白襷隊に決死の銃剣突撃を命じて松樹山第四砲台に突撃、しかし結果は壊滅状態となり、退却のやむなきに至った。

このようにして旅順攻撃の正面作戦はまたしても失敗に終わり、乃木は27日未明、ついに203高地の攻撃を命ずる。29日夜には児玉総参謀長は煙台停車場から汽車で旅順に向かった。この戦いも占領・奪回の繰り返しで苦戦を強いられたが、30日、いったん203高地の占領に成功した。しかし翌日にはロシア軍に奪回されてしまうことになる。

海外に目を転ずれば、この月の8日、米国では共和党のセオドア・ルーズベルトが民主党のバーカーを破って大統領再選を果たした。

一方、ロシア革命への序奏が静かに始まっていることに注目しておかなければならない。2日にはロシア開放同盟の第二回大会がサンクト・ペテルブルクで秘密裏に開催され、19日から21日まで第三回ゼムストヴォ会議が開かれた。この会議の意義は大きく、ツァーリに対して公然と改革を求めたのであった。

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