1904年10月。
日露戦争が始まって8ヶ月目に入り、激しい戦いが中国各地で繰り広げられていた。前月には、日露それぞれ二万人以上の戦死者を出す大激戦の末、日本陸軍の第一軍(司令官:黒木為楨)、第二軍(同 奥保鞏)、第四軍(同 野津道貫)が遼陽を占領したものの、第三軍(同 乃木希典)の旅順攻撃は一進一退を繰り返し、9月23日には総攻撃も失敗に終わっていた。
大本営参謀本部次長の児玉源太郎が旅順から遼陽の総司令部に戻ったのが10月6日午前6時。翌7日には児玉の前で幕僚会議が開かれ、攻勢に出るべきかどうかの議論がなされている。それには伏線があった。決定的に砲弾が不足していたからである。司馬遼太郎は『坂の上の雲』の中で、この時期についてこう書いている。
日本軍は、その国力の貧弱さのために遼陽からの跳躍力をうしなった。
「とにかく砲弾を貯めることだ」
という一点に、児玉は作戦の重点をしぼらざるをえなかった。砲弾を貯めることが作戦と いう名に値するかどうかは、疑問である。それを作戦の重点にしなければならぬほど、日 本国家にはこれだけの大戦争を遂行する能力がなかった。
文春文庫版(四) p.241 より
10日には第一、二、四軍に前進命令が下り、沙河附近でロシア軍の主力を攻撃開始、12日には各地で激戦となったが日本軍が次第に攻勢を強め、沙河会戦といわれる戦いは18日には終結し、この日、満州軍総司令部は各軍参謀長を交えて幕僚会議を開いている。
一方、第三軍は26日から第三回の旅順総攻撃を行ったが、乃木将軍は31日には攻撃の中止を命令した。
さて、後に日露戦争の勝敗を決定づけることになった日本海海戦におけるロシアの主力、バルチック艦隊がリバウ港(現在のラトヴィア共和国のリエパヤ。ニコライ二世は、ここをアレクサンドル三世港と名づけた)を出航したのが、この月の15日であった。艦隻の総数は40隻、司令長官はロジェストウィンスキーである。彼は出航後の18日、皇帝からの電報によって海軍中将に昇格した。
技師ポリトウスキーは、出航直後の妻に宛てた手紙で「月日は白駒の隙を過ぐるが如し、此処には目に映ずる風光所感の新しきものあれば又危険も話柄も諸事の働きも皆新しからざるはなし」と書いている。
この艦隊は21日から22日にかけて、英国東岸スパンヘッドの東北200海里のドッカーバンク附近で英国漁船を日本船と誤認して砲撃を加えるという、いわゆる「ドッカーバンク事件」を起こし、一時、露英関係が険悪になる事態が発生した。
この月、1日に英国軍がチベットから撤退、3日にはモロッコにおける勢力圏設定に関するフランス・スペイン協定が成立している。
日本では、30日に野球の早慶戦が行われた。