1904年9月。
すでに日露戦争が始まって半年を過ぎ、激しい戦いが各地で繰り広げられていた。日本陸軍は第三軍(司令官:乃木希典大将)の旅順攻撃に合わせて遼陽攻撃を計画、一軍(司令官:黒木為楨大将)、第二軍(司令官:奥保鞏大将)、第四軍(司令官:野津道貫大将)が、その総力13万5千をもって総攻撃を行うことになったが、豪雨等の影響もあって、実際に攻撃を開始したのは皮肉にも旅順攻撃に失敗し、退却を開始した8月24日であった。
9月1日には大激戦地となった首山堡近辺の高地や饅頭山、五頂山を占領、2日には第一軍の作戦に敏感になりすぎたクロパトキン大将が遼陽からの撤退を決意、3日にはミシチェンコ将軍が遼陽東面の戦闘で戦死している。後に軍神と仰がれる橘周太少佐(死後中佐に昇進)が戦死したのも首山堡での8月31日未明の戦いであった。
4日、ついに第一、二、四軍が遼陽を占領し、ロシア軍は太子河右岸に退却して、日露それぞれ二万人以上の戦死者を出した「遼陽会戦」は終わる。
一方、第三軍は前月の旅順総攻撃に失敗した後、この月の初旬に再び攻撃を行うことを決定、19日に二〇三高地に向けて攻撃を開始し、20日には水師営南方堡塁、龍眼山北方堡塁(クロパトキン砲台)、海鼠山などを占領するものの、戦闘はロシア軍の増援が相次いで激烈を極め、22日にいったん二〇三高地の攻撃を中止、退却を余儀なくされて、この作戦もまた失敗に終わる。
この月の文化・芸術の動きもみておこう。
1日に発売された「明星」夏季号に、与謝野晶子は召集されて旅順に従軍した弟に心を痛め、自らの心情を吐露した長編詩『君死にたまふこと勿れ』を発表、これに対して大月桂月が次月号の「太陽」誌上で内容を糾弾して論争を生んだ。
4日には、島崎藤村が自らの詩集『若菜集』、『一葉舟』、『夏草』、『落梅集』を合本にした『藤村詩集』を発刊している。
絵画の世界では、若くして夭折した青木繁が、22日からの第9回「白馬会展」において歴史に残る名作『海の幸』を発表した。約70センチ×180センチの大作である。
岡倉天心は24日、米国で開催されていたセントルイス万国博覧会の芸術・科学会議で、“Modern Problems in Painting”と題して講演、26日には小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が心臓発作で没した。享年54歳。氏はこの年、名作『怪談』を出版し、春から早稲田大学で教鞭を執り始めたところであった。